1月30日「【幼児のためのティーボールの今後】」

 前述したように、幼児のティーボール3点セットが出来上がりました。ちょうど5,6年前のことです。

 その頃に、あの丸山克俊先生が本協会に戻ってこられたのです。当初は、日本協会の方々に多少遠慮をされることもあったので、私はアジアティーボール連盟(会長は私)の理事長として手伝ってくださいとお願いしました。OKを頂いて、12年振りで、彼と私はティーボールやソフトボール、幼児体育、更には、お互いの大学の話をするまでに戻りました。そうしたところ、彼は、東京理科大学の定年を前に1年早く退職し、日体幼稚園の園長先生に就任されました。私は、これは将来日体大全体の偉いさんになられるためかなと感じていました。ところが、なぜかそこも1年で退職されたのです。この時、このタイミングで彼に幼児のティーボール指導をお願いするしかないと判断しました。ところが、彼は当初私にこう言いました。「幼児にベースボール型の球技を指導するのはよろしくない」と。しかし私は食い下がりました。なぜなら、幼児指導が抜群に素晴らしく、その上、野球もソフトボールも知っておられます。このような方は、日本には彼をおいて誰もいません。説明しまくりました。そこで、決め手となったのが、先述した、幼児用ティーボール3点セットを見せたときでした。

 ご存じのように、彼は23歳の大学院の時から幼稚園に行き、幼児の遊びの研究・実践を行っていたのです。幼児をことのほか愛されています。そして、日体幼稚園退職時は、日本幼少児教育学会の会長もお勤めになっていました。幼児の指導はいつも体を張って、汗をかいて頑張られていました。「学問的のも、実践的にも彼しか幼児のティーボール指導きちんと出来る人はいない」。私は、彼が日本の野球・ソフトボールを救う切り札だったと考えていたのです。

 彼が本気で、幼児のティーボール指導に乗り出してくれました。京都で、東村山で、茨城で、福島で、それぞれ幼児ティーボール教室を開設してくれて、その先々で好評でした。そこには、女子プロ野球選手を助手につけ彼女たちも将来子供の野球・ソフトボール指導が容易に幼稚園等で行えるようにとお膳立てもしたのです。

 京都の広野幼稚園が人工芝の幼児ティーボール専用球場を作ってくれたのもこの頃でした。

 このようにして、「さあ!これから皆が協力して幼児に、小学1,2年生にティーボールを更に普及しよう」というときに、丸山克俊先生が天国に行かれ、そしてコロナが世界で蔓延してきたのです。我々は、負けられません。今できることを丁寧に積み重ね、コロナ後に備えることです。そして、丸山克俊先生がしっかり蒔かれた種をきれいな花が咲くように残された我々で努力しましょう。コロナが終息するまで、もう少しの辛抱です。