1月10日「近代ベースボールの父・カートライト」が愛したハワイ
今、日曜日の11時、だいたいこの時間は、早稲田大学ソフトボール部の指導で所沢キャンパスにいます。部活動は2月7日までは原則禁止としました。今は、試験前です。学生は勉強が1番。徹底して勉強することです。日頃はあの素晴らしいグラウンドで練習や試合(リーグ戦)を行えるのですから。というわけで、この時間、私は「暇」になりました。今日は、少しこの「理事長からのメッセージ」長く書こうかなと思っています。
昨晩、TBSテレビ、「世界ふしぎ発見 楽園ハワイ新時代へ」という番組を見ました。そこでは、ワイキキ、ハナウマベイ、ビショップミュージアム、ハワイ島、カウアイ島、日立の木、などが紹介されていました。懐かしいですね。今日は私の第2の故郷ハワイについて、野球やソフトボールを絡めて紹介しましょう。
皆さん、「アレキサンダー・J・カートライト」を知っておられますか。彼は「近代ベースボールの父」と言われる方で、1845年、彼が提案したベースを置いたボールゲーム(フオーコーナース)は、塁間約90フィート、1チーム9名、21点先取した方が勝ち、1塁と3塁の範囲の外に出た打球はファウル(不正)、3人アウトになれば攻守交替、といったルールです。今の野球にとても近いです。それまでは、1830年頃のベースを置いたボールゲームは、今のソフトボールに類似しています。ルールは、塁間約60フィート、投手は下手投げが義務、走者は1,2,3,4、の順で走る、さらに走者は、走塁中野手からボールを投げ当てられるアウト、といったルールでした。
そのカートライトが、晩年隠居先に選んだ土地がなんと、ハワイのマキキ地区だったのです。
もう一つ、皆さん、アメリカのスローピッチ・ソフトボールの人口はどれ位か知っていますか。40年ほど前のアメリカのエンサイクロペディア(百科事典)によると、「アメリカのソフトボールは1億2千万の競技人口とファンがいる。」と書かれています。今はもっともっと少なくなっています。この競技人口の8割5分がスローピッチ・ソフトボールの競技者なのです。もっと簡単に紹介するならば、アメリカのソフトボール人口は野球の約6倍いました、彼らは皆野球ファンです。ソフトボール球場は、約5倍のグラウンドが用意されているのです。(そのころの小学校や中学校の校庭にはソフトボール場が二面設置しなければならないという国の決まりがありました。)、その百科事典によると、ソフトボールはアメリカ最大の競技人口がいると記しています。今のアメリカの野球とソフトボールは、4,50年前から比べると競技人口は、残念ながらとても少なくなっています。
さて、話はハワイに戻ります。ワイキキから山に向かって徒歩25分ほどでマキキ地区にあるマキキソフトボール球場に行けます。そこは別名カートライトフィールドと呼ばれています。私が40年ほど前にハワイでソフトボールをプレーする時のホームグラウンドでした。あの近代野球の父・カートライト氏の名前を頂いているのです。因みに、彼のお墓もハワイにあります。本派本願寺を経由して、ヌアノパリに抜ける道の左側にあります。
ハナウマベイ、私が留学していた時は、バスはアロハタワーから、カイムキまでしか通っていませんでした。私が住んでいたのは12番、その様なわけで、ハナウマベイで魚を見たり泳いだりするときは、ルームメートのケンがよっぽど機嫌がいいか、寂しがっていて、私がたまたま暇なときか、彼のバイクに乗ってヘルメットを被って二人で行くぐらいでした。本当にきれいな海でした。昨日のTVでは今は泳げないとか、懐かしく思いました。さてそこに行く途中、ハワイカイ地区に立派なソフトボール場が沢山ありました。その多くが、ファーストピッチでなくスローピッチ・ソフトボールを楽しんでいたのです。
1982年早稲田大学ソフトボール同好会は早稲田大学創立100年を記念して第一回アメリカ遠征を行いました。行く先は勿論ハワイです。団長兼監督は私、主将はH、主務(マネージャー)はO、サードDとK、ライトK、投手でUたちでした。Hは、今、日本ティーボール協会の監事、Oは協会創設の時東京にいて、パンフレット作製に尽力、今、岩手県連盟、Dは埼玉連盟、サードKは福岡連盟、ライトKは千葉連盟、Uは石川連盟の創設に尽力、協力してくれました。彼らの偉大なる協力と尽力で現在の日本ティーボール協会があるのです。その遠征から約39年たちました。それからというものは、歴代の部員が、古くはスローピッチ・ソフトボールを研究・実践し、その成果を経て、今日の「日本式ティーボール」があるのです。今も、現役の部員が一生懸命協力してくれています。この伝統があるのです。
そのハワイ遠征で、最初の試合は、ハワイの最強チーム「ジョリーロジャース」、私が所属したチーム。場所は勿論、カートライトフィールド、彼らに野球とは、その本質とは、歴史は、これらを教えるためにそこで第一試合を行うしかないと決めました。それが私の教育的マネジメント、その後、マウイ島、ハワイ島、ヒロ市、コナ市で試合、各地で大歓迎を受けました。日本からのお土産は段ボールで30箱、全部使い切ったのです。足りないくらいでした。
今までの試合は当然ファーストピッチの試合。そして、オワフ島に戻った時の最終試合は、当然のようにスローピッチです。場所はあのハナウマベイの近くのハワイカイのソフトボール場。
ハワイの野球・ソフトボール連盟からのお土産は、モンキーパッドの果物入れに早稲田とハワイのグッドウィル(親善)の文字。皆さん、モンキーパッドの木ってわかりますか、日本でいうあの日立の木です。その木で細工したものがお土産に多いのです。
さて、上記のハワイ遠征のメンバーに皆さん、遠征にはこんな配慮があったのですよ。今、39年たってお分かりいただけたでしょうか。もしご理解いただけたならば、今後とも、この日本式ティーボールを宜しく、そして温かく、お守りください。助けてください。応援してください。
ハワイのことを書くと長くなります。申し訳ありません。それ程、私はハワイを愛しています。ではまた、アロハ、マハロ。