1月29日 自己新、21,652歩。平安高校、西本願寺、京都大学宇治キャンパス、黄檗山満福寺、宝善寺、よく歩きましたね。

 出ました!自己新記録。21,652歩。これは1日の総歩数です。万歩計の歩数を意識し出してからの最多です。1日の歩数は、1万歩以上と決めたのは、コロナ禍になってからでした。しかし、2万歩以上歩いたという経験はありません。

私は30歳から50歳まで早稲田大学体育局で「野外活動」(長野県菅平)という授業を受け持っていました。その時は「夏季特別授業」ということもあり、よく歩きました。2万歩以上を歩くのは、それ以来ではないでしょうか?

 さて、その2万歩はいつどこで記録したのでしょうか。それは1月27日の京都のことです。宿泊は京都駅の近くのホテル。朝起きて9時に「日本ティーボールセミナー」と「アジア大会」の件で、京都の小西理事等と打合せ。

その後、ホテルから母校の平安高校に行きました。正門で「一礼」。の後、職員室を訪ねようかどうか迷いましたがそちらへは行かずに、学校の周りをゆっくりウォーキング。

島原口に回ると、昔ながらの野球のバックネットがそのまま残っていました。道路から見えるグラウンドは人工芝に代わり、野球は出来ないようになっていました。外野フェンスの後方を歩きながら、「ボールがフェンスを越えた時は、よくボールを拾いに行ったなあ」と当時を振り返ったり、「またこのグラウンド意外と狭いなあ」と感じたりもしました。懐かしいです。

 七条通り大宮角には、藤田内科がありました。以前は外科でした。ここには大変な思い出があります。中学の先輩とキャッチボールをしようとして、私は一礼、頭を下げました。そしたら、中学の先輩は幼馴染であり、私が一礼をしないと思ったのでしょう、ボールを投げてきたのです。私は顔をあげたら、その投げられたボールが、顔面に当たり、鼻や口から血がいっぱい出てきました。私は出血多量で死ぬのは嫌だと思い、その血をがぶがぶ飲んだのを思い出しました。この時、藤田外科に担ぎ込まれたのでした。

 平安高校の外周を歩いた後は、隣の西本願寺の外周ウォーキング。懐かしいなあ。よくここを走ったなあ。西本願寺の正式名称は「龍谷山本願寺」。そういえば、平安高校の今の正式名称は「龍谷大学附属平安高校」。より格調高くなったのでしょうか。より西本願寺さんと良好な関係になったのでしょうか。今度、平安高校副校長先生に聞いてみよう。

 西本願寺の正門で平安高校と同じように「一礼」。中に入ると国宝・重要文化財が多数現存しています。この度は,「飛雲閣」(国宝)の外観と庭園「滴翠園」(名勝)を拝観してきました。高校時代ここで参拝し、現存最古の北能舞台(国宝)や「虎渓の庭」(特別名勝)等を拝観した記憶があります。とても懐かしいです。

 その後、京都駅に向かいました。その時確認した歩数は約8,000歩。

今日の会合は、宇治市五ケ所の「黄檗山満福寺」横の宝善院。JR宇治行きに乗り、東福寺駅、伏見稲荷駅、六地蔵駅等を経由して、黄檗駅に着きました。着いて気が付いたのは、ここから約300メートルで京都大学宇治キャンパス。「そうだ!京大に行こう!」そこには、エネルギー理工研究所や化学研究所があり、コロナウイルス感染症の対策やこの度の能登半島地震の研究もここで行われているはずだと思ったからでした。

 敷地は広いです。そういえば広野幼稚園へは、この隣の京大官舎から毎年園児が来てくれていると以前、父や兄から聞いたことがありました。教育熱心な方が多いと聞いたことがあります。保育の充実のため、貴重な意見を下さった方々も多くいらっしゃったのではないでしょうか。

 歩き疲れたので、喫茶店を探したのですがありません、田舎です。それらしき看板がある所に行くと、お店は閉まっていました。ついに一軒見つけました。そこで万歩計を見ると、何と15,000歩。これはやばいぞー。歩数を見ただけで疲れました。30分ほど一休みをして、いよいよ目的地の宝善寺へ。そこでの会合を終え、長兄の車に乗せてもらい、京都駅に向かいました。八条口で降ろしてもらい、新幹線乗り場へ。

 新幹線の出発まで1時間ありました。その間、お土産を買ったり、夜食を食べたりで、20時15分の新幹線の乗車。今朝がた買った新聞を読み直し、品川駅に到着、そこで万歩計を見ると20,000歩超え。

高田馬場駅を経由して東村山駅に着いたら、通常タクシーは期待できません。25,000歩超え?23時時30分、駅に着きました。ラッキー!タクシーが停まっている。

 自宅に帰って万歩計を見ると、21,652歩。

これでもしタクシーがなかったら、あの30年数年前の「菅平の野外活動」。

翌日は、所沢のグラウンドに行き、ソフトボール部員の指導。まだまだ若いですゾー。