12月1日「理事長からのメッセージ」(パート2)
今日の朝、日本ソフトボール協会会長の三宅先生、並びに宇津木副会長のことを少し書きました。書き終わって郵便受けをチェックしたらなんと認定NPO法人ソフトボール・ドリーム理事長宇津木妙子さんから、丁重なお手紙と2種類のマスクが送られてきました。マスクには宇津木さんの似顔絵が上手に描かれていました。これは、ありがたいやら、着用してもいいものやら、どうしようかと今迷っています。いずれにせよ話題提供するためには最高です。宇津木さんありがとうございました。
さて、また昔話を一つしましょう。私が宇津木さんに初めて会ったのは、確か彼女が18歳で私が26歳ごろだったと思います。私がハワイ、アメリカからの留学を終えて帰国したのが26歳、28歳に大学院に進学するまでの1年半京都の父が経営する広野学園広野幼稚園の職員として勤務していた時、京都明徳商業高校のソフトボール部のコーチとして暇なときは指導に行っていました。私は大学4年間の夏休み、冬休み、早稲田祭休み、春休みとその高校の臨時コーチをしていて、教育実習も母校平安高校にいかず明徳高校で行わせていただきました。その関係で大学4年生の時、明徳がハワイ遠征したときコーチとして帯同したのでした。
その明徳が、ニチボー垂井に試合に行ったとき、高校を卒業されたての宇津木さんがいらっしゃったと記憶しています。当時のニチボー垂井には、成瀬、藤原といったとてつもなくすごい選手が二人いて他を圧倒していた記憶があります。成瀬さんには、私が31歳で書いた「写真で見るソフトボール」のモデルにもなっていただきました。ちなみにその本は想像を超えるほどよく売れました。いわゆるベストセラーでした。多くのソフトボーラーが活字に飢えていた時代であり、多くの知識を獲得したいと思っていた選手がたくさんいたのです。宇津木さんはそのころからの名選手でした。それ以降は、たまに全日本総合で彼女は女子の社会人監督、私は早稲田大学の監督としてお会いするぐらいでした。確か、ソフトボールマガジンのトップ訪問で彼女の会社の社長様と私が対談したとき間に入って様々お世話いただきました。それくらいの関係で、その後は、私はただ一方的に宇津木ジャパンを応援するだけでした。この年になって宇津木さんとこのようなかかわり方をするとは、人生面白いなあと思っています。また、ありがたいなあと思っています。今朝がたも書きましたが、今後とも宜しくお願いいたします。ソフトボール、野球の底辺拡大にいい汗をかきましょう。
今朝がたの続きでした。