12月11日 大谷翔平選手がドジャースへ。新聞記事はブルー一色。日本協会では創設期からドジャーブルーを大切にしてきました。
大谷翔平選手の所属先が確定しました。ロスアンゼルス・ドジャースです。10年で1015億円の契約。おめでとうございます。大谷選手にとっては、高校時代から憧れていた球団。ドジャーブルーのユニフォームを着られるのですよね。エンジェルス時代の「赤」もカッコ良かったですが、ブルーも似合います。
大谷選手がドジャースを選んだのは、高校時代からの憧れ、日本の野球界から見ると一番身近に感じる球団、エンジェルスと同じ本拠地がロスアンゼルス、ロバーツ監督が日系人で名監督、常勝軍団でワールドシリーズに出場する機会が増える、ベッツやフリーマンといったスター選手が在籍している、活躍できる環境が何もかも揃っている等が、決め手となったと考えられます。
私はそれら以外に、以前から周りの人たちに、語っていたことがあります。それは、「以上の好条件に加えて、大谷選手は、9月の下旬に右肘の再手術を受けた。この執刀医がドジャースのチームドクターでもあるエラトロッシュ医師。野球界で活躍するためには、体のケアーが一番大切。手術を受けたことがある選手は、自分が手術後本当にボールを以前のように投げられるか、走れるか、打てるかと様々心配するものです」と。大谷選手とて例外ではありません。執刀医が身近にいてくださるというのは、本当に心強いのです。これが一つの決め手となると考えていました。
今日は新聞休刊日。朝事務所に来るまでにコンビニに寄りました。勿論、スポーツ新聞を買うためです。大谷選手の報道を楽しく読むため、また、分析するためでした。東京では「デーリースポーツ」以外の全ての新聞は、一面に大々的に、この「大谷選手ドジャースへ」を取り上げていました。新聞の色はどこの新聞もブルーが目立ちます。中でも「日刊スポーツ」は表面と裏面ブルーで、両方を使用して大谷選手の記事を掲載していました。
「デーリースポーツ」は、やっぱり阪神が一面。村上投手の昇給記事でした。阪神ファンは幸せですね。
さて、このドジャーブルーを、我々日本ティーボール協会はとても大切にしていたのを、皆さんご存じですか。
ナガセケンコー等で販売している「バッティングティー」。今は「黒」ですが、30年前日本ティーボール協会をスタートした時は、「ドジャーブルー」でした。私はこの色に拘りました。10年ほどして今の「黒」に代わりました。コストの関係もあったようです。同様に中学生から中高老年まで、「大人用」として販売して頂いている「バット」も、最初は、ドジャーブルーだったのです。皆さん、お手持ちの古い「バッティングティー」と「バット」を確認してください。ドジャーブルーの「バット」と「バッティングティー」をお持ちではないですか。
まだあります。皆さんに対して日本協会の活動を定期的に報告する時に使用する「長形3号」と「角型2号白菊」の封筒、この下の書かれている日本ティーボール協会のロゴ、住所、電話番号とファックス番号、メールアドレスをご覧ください。その色は、全てドジャーブルーです。
協会事務所にはまだまだドジャース関係のグッズがあります。これはドジャースの以前オーナーだったオマリー氏から私に直接プレゼントされた「本人直筆のサイン入りウインドブレーカー」です。この際です、いつも飾っておくだけですが、今朝がた数年振りで着てみました。それが下の3枚の写真です。ご覧ください。
自宅には、野茂選手がドジャースで活躍した時の帽子、バックパキング、書籍、記念グッズ等々あります。大谷選手のドジャース入団で、益々、ロスアンゼルスが身近になります。UCLAも、USCも、日本人町も、ディズニーランドも、ヨセミテナショナルパークも、東京の隣町のように感じるようになりました。
以上のように、日本ティーボール協会とロスアンゼルス・ドジャースとの関係は、憧れがあったり、また、身近であったりします。ドジャースと日本の野球界も、様々思い出されます。読売ジャイアンツをドジャースのキャンプ地ベロビーチに招待。オマリー氏が可愛がったアイク・生原氏。そのアイク氏を慕ってどれほど多くのプロ・アマの野球選手及び関係者がドジャースを訪ねたか。アイク氏はどれほど親身になって多くの方をお世話されたか、数えきれません。
先日書いたように私は、中学時代から「ドジャースの戦法」アル・カンパニス著で、メジャーのベースボールを学習しました。ベストセラーでしたからどれほど多くの野球人がこの本を熟読したか。巨人軍の選手も同様でした。
来年、大谷選手がドジャーブルーのユニフォームを着て、活躍される姿を観るのが、今から楽しみです。