12月2日「理事長からのメッセージ」

 昨日の夜、水島新司先生が漫画家を引退するというニュースが流れました。今日のスポーツ新聞の一面トップはほとんどが彼の関連記事でした。漫画家でありながら野球界に偉大な足跡を残されました。多くの野球ファンが知るところです。
 水島新司先生と、この日本ティーボール協会との関係を少し皆様にお知らせしましょう。
 私が水島先生にティーボールのイメージキャラクターをお描き頂きたいと思ったのは日本ティーボール協会を設立する数か月前です。それは私がドカベンやあぶさんの大ファンであったからです。そのため、どのようにすれば先生と出会えるかを考えました。そこで思い出したのは元南海ホークスのち阪神でブレイザー監督の元ヘッドコーチ、そして近鉄でスカウト部長等を務めた市原稔君でした。彼と私は早稲田大学で同級生、彼は南海をテスト生で入団した男です。テストの時は、受験資格の年齢制限が20歳以下とあったので、22歳早稲田大学卒業見込みではテストを受けられないので、千葉東高卒業19歳と書いて入団テストを受けて合格、時の監督野村さんにこんな「野球馬鹿(野球好き)」がいるのなら取るかということで入団した男です。一軍でプレーしたのはショートで一回か二回、一エラーという記録。このことを、水島先生は、あぶさんで紹介しました。水島先生は生粋の南海ファン、よく市原君のことを調べておられました。それを知っていた私は市原君に電話でこれから日本ティーボール協会を設立して、そのイメージキャラクターを水島先生に描いてもらいたいのだが間に入ってくれないか)とお願いしました。そうしたら、彼は秘書さんを紹介してくれて、水島先生のご自宅でお会いすることになりました。
 「先生、よく考えましたね。止まっているボールを打つ野球ですか、これだと誰でも打てるものね。楽しめるね。」水島先生が私に言った最初の言葉でした。とても印象に残っています。その後、あのかわいらしい顔でヘルメットをかぶりで軟式ボールを打つイラストを描いてくださり、それを協会にご寄付、協会設立の日にそれを披露させていただきました。その後も、1994年1月の日本ティーボールセミナーでも基調講演「ティーボールの魅力」というタイトルで見事なお話とイラストを披露。その7年後の荒川博野球塾を立ち上げたときも特別に参加くださいました。私や私のゼミ生宛てにもサイン入りの色紙も1998年に寄贈してくださいました。私もゼミ生も大喜びしたのを昨日のように記憶しています。その節はありがとうございました。我々のこのホームページにも日本協会への大功労者として「感謝」の中で少しく紹介させていただいています。ぜひご覧ください。

 水島先生と私、それに先生と我々日本協会との関係を紹介して、引退される先生への「感謝」をお示しいたします。ありがとうございました。