12月30日「理事長からのメッセージ」
今日ハワイのデージー岩元さんから「クリスマスカード」が届きました。しっかりした字で「2021年の多くの幸福を祈る。」とありました。岩元さんはもう90歳を過ぎられたと思います。お元気そうです。私のハワイの「おばさん」と言ってのいいほどの親戚付き合いです。
岩元さん、と言っても多くの日本の野球・ソフトボール関係者は知らないでしょう。でもあのマサオコイケ(古生正夫)先生の無二の友達だといえば、ハワイと日本で野球かソフトボールに少しでも携わった人は、ああ、あの女性の方かと思い出すでしょう。それ程、女性で日本とハワイの野球とソフトボールの架け橋をなさった方です。
コイケ先生は、私の人生の恩人です。私のハワイの「お父さん」です。私が早稲田大学を卒業した1か月後の1969年5月に、ハワイからわざわざ日本に来られ、帰りの飛行機で私をハワイに連れて行ってくださった方、2年半の留学中は毎日私のボロアパートに車で来て学校まで送ってくださった方です。先生はご存じのようにA.J.A日系野球、並びに日系ソフトボールのそれぞれの連盟で「会長」を30数年務めた方です。私はそのリーグを中心に350試合ほど出場しました。そのリーグの先輩には、先日も紹介しましたがウオーリー・与那嶺、ジャック・ラドラ、スタンレー・橋本、ビル・西田、カールトン・半田等がいました。コイケ先生の仕事はグレート・ハワイアン・ファイナンシャル・コーポレーションの副頭取。でも実際の仕事はというと毎日のように日本からくる政治家・経済界・プロ野球関係の偉い人等のお世話ばっかり。銀行に戻ると秘書のジャスミンさんからの書類にサインするだけ。私が知っている限りでは、先生ほどハワイと日本の架け橋をした方はおられません。阪神タイガースの吉田義男さんともとても親しいお付き合いをされました。高校野球、東京6大学、東都6大学、プロ野球、日本ソフトボール協会の役員、高校私学連盟の方々、お世話された方の団体、名前を挙げるときりがありません。
一方、ハワイチームの団長として戦後から100回近く日本に来られました。ハワイ高校野球団、ソフトボールチーム、日系人団体のツアー、全てが団長でした。ものすごい回数です。書きたいことは、もっともっとあります。私は留学中、コイケ先生の息子のように可愛がられました。
そのコイケ先生の無二の親友がチャーリー岩元、その奥様がデイジーです。チャーリーは21年前に、コイケ先生は6年前に亡くなりました。コイケ先生はお亡くなりになる5か月前、私に会いに日本に車椅子で来られ、それを押していたのが、マージー西尾、コイケ先生とフローレンス・コイケ(私のハワイのお母さん)の次女。池袋のホテルで会ったのが最後でした。ご夫婦からは思い出しても今でも涙が込み上げてくるほどご指導とお世話いただきました。あの、360円でお金のない時代から約45年です。
日本の野球関係者の方々、コイケ先生を「日本の野球の殿堂」に入れることをお考えになっては如何ですか。この件で、25年ほど前、東京6大学でコイケ先生と親交のあった長船さんにこの件を提案をしたら、簡単に断られました。多くをご存じなかったのでしょう。私の説明も十分ではありませんでした。
さて、そのコイケ先生ですが、我々日本ティーボール協会でも、1993年協会を立ち上げたとき、「顧問」にお願いしました。即座にOKサインです。
そして、デージー岩元さん。彼女のお母さんは、福島浪江町の出身、日本行きのツアーで団長を務めあげられた後は、いつもお一人で浪江の親戚のお宅に2,3日寄ってから、帰国されたのを思い出します。浪江はご存じのように福島原発の関係で立ち入り禁止が続きました。でも今年は10年ぶりにお米がとれたとか、グッドニュースです。このニュースを年末岩元さんに届けるのを忘れていました。近々、また手紙出そう。
もう一つ岩元家について追加です。1971年、調布のリトルリーグのチームがニューヨークで開催される世界選手権に出場するために、途中ハワイに立ち寄りました。勿論そのお世話をされたのが、コイケ先生たちの日系野球団体です。そのコーチとしてきた当時中学3年生の林建設の社長の息子さんがホームステイしたお家がチャーリー・デージー岩元さん宅でした。林さんは覚えていらっしゃるかなあ。その林さんは、その後、早稲田大学で野球部のマネージャーを務め、卒業後は東京6大学の審判をされたと聞いています。その他、様々なところで大活躍されているとか。もし私が明日彼とお会いするとなると、51年振りということのなりますね。
それでは、デージー岩元さん、良いお年をお迎えください。そして、来年は、コロナが収束した後、日本かハワイでお会いしましょう。アメリカのティーボールと日本のティーボールの違いについての話をしましょう。「親愛なる、ハワイのおばさん。」