3月20日「センバツ甲子園2年ぶりの開催、私の甲子園」

 昨日3月19日センバツ高校野球が甲子園に帰って来ました。今日の新聞によると日本高野連会長の八田英二会長は球児に向かって「どんな時も希望を胸に、目的に向かって力強く挑戦を続けてください。挑戦こそは、皆さんの未来を開く原動力です」。と挨拶なされたとのことです。いいセリフですね。ギリシャ神話「パンドラの箱」からの引用されたものです。いいですね。さすが同志社大学の学長先生。先生と私が初めて出会った時の会話は、私は平安高校の卒業生ですが、先生は?八田先生。「私は同志社中学、同志社高校です。」って。

 同志社中学か。私が二条中学の野球部で投手で4番の時、同志社中学の投手で4番が岩倉君、その名の通り岩倉具視の孫と彼は言っていました。野球は二条中学の勝利。でも京都同志社というと野球はそんなに強くはないですが賢い生徒が集まる立派な学校です。あの新島襄先生が創設された大学です。

 さて、センバツ高校野球、2年振りで甲子園に帰って来ました。私が甲子園に強いあこがれを抱いたのは、小学生の3年生頃です。そして5年生の時、長兄に連れられて平安高校の入り口、あの島原口の駅から見える平安のバックネットを見たときから、僕は絶対に平安で野球をやり甲子園で優勝するのだと思うようになりました。中学3年生の時、数校の野球強豪高校からうちに来ないかとの声がかかりましたが、すべて断りました。また、家族の姉二人からは府立の進学校を受験するように言われ、(二人の兄は平安高校行きに大賛成)嫌々受験しましたが、合格したけれどその進学校に行く気は全くなし。

 それ程甲子園の魅力は大きいのです。

 平安高校の受験の当日、筆記試験を終えて面接。今でもはっきり覚えています。私は、面接のとき受験票を忘れたことに気が付きました。面接官の先生は笑っておられました。そこで、面接官の先生、「君は府立高校を受けて受かった時、平安か府立高校かどちらに行くのかね?」という質問。私は「勿論平安です。受験票忘れたので今年滑っても来年また受けます。」と言いました。このセリフが良かったのです。幸い合格しました。受験票を忘れて合格した人というのは、平安高校ではあまりいないようです。今もって語り草です。

 平安に入って甲子園で優勝して、東京6大学でまたまた活躍する。これが60年前の15歳の少年の夢でした。

 結果は、平安高校野球部の落ちこぼれ。甲子園は下級生の時スタンドで応援するだけ。3年生になると春も夏も予選で負け。さあ、この後野球を取るか、嫌々勉強するか、選択を迫られました。現役での大学受験は、兄二人が同志社大学なので私も同志社一本。あっさり失敗、八田先生みたいに優秀ではありません。さて、近畿予備校での猛勉強です。1年後輩の衣笠君たちが甲子園で大活躍です。二条中学野球部から私の後を追って入学した二人のうち、一人は3番でキャプテン、もう一人はレフトで6番打者。彼らが活躍すればするほど、悔しいやら、勉強に身が入るやらとても複雑でした。

 これが私の甲子園です。野球もいいけど野球がだめでも、いっぱい素晴らしい未来があっちこっちにあります。八田先生は甲子園に出場した選手に向かっておっしゃった「『希望をもって挑戦』してください。」と。それを私は、私のように甲子園の舞台に立てなかった皆さんに言います「希望をもって挑戦してください」と。

 私は、甲子園で活躍はできなかったけれど、早稲田大学の教授生活41年。これまたいいものでした。  勿論、現在の野球の底辺拡大のためにボランティアしているティーボールの普及