3月23日「釜本邦茂さんの記事から、やっぱり野球にソフトボールにそしてティーボールに行きます。」

 「今度は合わせた!釜本だ、シュート、ゴールインです」テレビの実況が当時の興奮を伝える。1968年、メキシコ五輪。この時獲得した銅メダルは、五輪男子サッカーで日本唯一のメダルだ。今日の朝日新聞のスポーツ面の記事です。

 この記事のインタビューに応じているのが釜本邦茂氏です。

 釜本さんと言えば、サッカー界でも特別な存在。野球でいえば王さんのような方なのでしょうか。私から見た釜本さんを今日はほんの少し書いてみます。

 釜本さんは、日本サッカー史上最高のストライカーでしょう。1968年のメキシコ五輪では7得点を挙げたことはあまりにも有名です。

 私は以前、友人だった加藤久さんに彼はどんな選手だったんですかと質問しました。加藤さんは「釜本さんは、あっちこっちと動かないのです。大事な時の動きが桁外れに凄いのです」と。今風にいうと「大事な時の半端ない動き」ともいうのでしょうか。

 私が釜本さんに何かの会でお会いした時、先ず聞いたのが「山城高校サッカー部のゴールキーパー中井君を知っていますか」でした。彼は驚いた表情で、「え!なんで彼を知っているの」これが彼からの返事。我が意を得たり。中井君のことは釜本さんと私以外多くの人は知らないです。

 中井君と私は、小学生の頃、私が「少年」という雑誌を、彼が「おもしろブック」という少年雑誌を購読していたのです。そして我々二人は毎月決まった日にその雑誌を交換するという友達同士。今ごろはこんなことする小学生は見たことも、聞いたこともありません。昭和20年代後半から30年代にはよくあったのです。勿論、あの頃は、彼と私は毎日のようにソフトボールで遊んだ仲間です。「太鼓ベース」という、今でいうメジャーリーグゲームもよくやりました。

 その中井君、山城高校に合格するや否やソフトボールを辞めてなんとサッカー部に入部、そして2年生でゴールキーパーとしてレギュラーでした。釜本さん自分のチームのゴールキーパーを知らないはずがありません

 その後、釜本さんと私の間では、しばし京都の話が中心。そこには、早稲田大学、ヤンマーディーゼルのネルソン吉村、日本代表主将の加藤久さんの話は、一切出ませんでした。歳をとると故郷がお互い恋しくなるのです。

 そうそうそこで一つ聞くのを忘れたことがあります。釜本さんのお姉さんが昭和50年代に東村山駅前で英会話教室をおやりになっていたという噂です。これが本当かどうかです。今の日本ティーボール協会事務所から2,3分のところです。今も東村山にお越しになるのなら、京都会をしたいですね。そこでは、平安高校の話はいいです。山城高校の話をしましょう。野球部からは、吉田義男さん、ラグビー部からは芸名を高校名からとった山城新伍さん、まだまだ大勢いろいろな分野で活躍している人たちがいます。私の兄も姉もそういえば山城高校出身。兄は京都ティーボール協会の常務理事も以前勤めてくれたこともありました。彼の山城高校でのクラスの左隣りが吉田義男さんの妹、右隣が山城新伍さんと聞いたことがあります、そうです山城新伍さんと言えばあの白馬童子です。

 こんな人たちの後輩が、峰ケ丘中学出身の偉大な釜本邦茂さんです。

 今日は釜本さんとサッカーの話をしようと思っても、最後はやはり、中井君のソフトボールや吉田義男さんの野球の話になりました。

 野球バカ、ソフトボールバカ、ついでにティーボールバカでスミマセン。