3月7日「私は衣笠さんの大ファン。アジア連盟顧問だった衣笠さん、モンゴルにティーボール連盟ができたようです。ご報告です。」
先日、国民栄誉賞を野球界では2番目に授与された衣笠祥雄さんがアジア連盟の顧問で様々なアドバイスを頂いていたことについて書きました。
今日は、私がいかに彼の大ファンであったかを書きます。そしてアジア連盟のその後も天国の衣笠祥雄さんに報告します。
日刊スポーツでは、発刊75周年の記念企画をいくつか打ち出しています。私は1975年早稲田大学体育局に奉職して以来、今日まで一日も欠かさず(アメリカ滞在中は除く)読んでいます。1975年までは、京都ではスポーツニッポンでした。
衣笠さんが、プロ野球広島カープに入団された1965年から引退された1987年までの22年間、スポーツニッポン、日刊スポーツの新聞で1番最初に見るのは衣笠さんが昨日ヒットを何本打ったか、ホームランはといった記事でした。彼の所属球団が広島カープでしたのでなかなかテレビでは放映してくれません。新聞で彼の活躍を読むのが、1番の趣味でした。自称日本1の衣笠祥雄ファンでした。
今でも、ベースボール・マガジン社発行のベースボール・アルバムNO.14衣笠祥雄(1980年・昭和55)発行やらナンバー85、衣笠祥雄パートⅡ(1982年)も大事に宝物のように私の書斎に積んでいます。たまに昔を思い出して読んだり、見たりしています。彼の引退後は、1987年に刊行された「ルー・ゲーリックを超えて」-忍耐野球の軌跡-(ベースボール・マガジン社)や1988年「お父さんからきみたちへ」(講談社)、そして1993年「人生、フルスイング」(株式会社佼成出版社)等愛読しています。私は衣笠祥雄オタクです。
上記前段のことを、彼に最初に打ち明けたのは、1986年の正月、彼が現役でありながら、プロ野球名球会の集まりで、ハワイに来た時でした。私はハワイ大学の客員教授でハワイにいました。確かワイキキのホテルで、彼と奥様と一緒にお茶をした時です。日本でなくハワイで会ったので私も開放的になり、衣笠さんにこの「新聞記事」の話をしたらことのほか喜んでくれました。物凄く印象に残っています。日本で会うときと一味も二味も違う強烈な印象として記憶に残っています。それから2年後に彼は引退されたのでした。
引退されてからは、上記後段の書籍を表したり、皆さんもご存じのように、野球解説者としても活躍され、アジア連盟の顧問を引き受けてくださったりでした。
その後彼と会う時は「平安関東同窓会」が多かったです。学年が1年違いということもありいつも彼と私は隣同士。昔ばなし、私からは野球の話、彼からは大学の問題やらティーボールの話。お互い進む世界は違ったけれど、とても楽しい話が出来る先輩・後輩の中でした。私は心から彼を尊敬していました。彼も「よっさん」ではなく「吉村先生」と呼んでくれていました。とても嬉しい瞬間でした。
さてその彼が、2018年4月28日に天国に行かれたのですが、その2年前の2016年、私は41年間奉職した早稲田大学を定年退職した時、私に送ってくれた彼からの手紙というよりメッセージ的なものがあります。そこには、彼が生前よく私に言っていたことが、書き記されています。一言でいうと、「野球が僕をこのように成長させてくれました。野球に感謝」ということでしょう。以下がそれです。
野球は、1,楽しい思い出を作るチャンスをくれました。
2,考える時間をくれました。
3,鍛えてくれました。
4,多くの指導者と出会える機会をくれました。
5,素晴らしい仲間と出会う機会をくれました。
6,才能豊かな後輩たちをいっぱい見る機会をくれました。
と、吉村さんどう思うと書いています。この1から6まで様々考えさせられます。全て納得です。読者の皆さんどうですか。野球への「感謝」だけでなく、彼の「謙虚さ」、「誠実さ」、「苦労し終えた後のお人柄」が伝わってきます。
「平安高校」で1年先輩ということだけで、このような素晴らしいお付き合いをさせていただいたこと、私の人生にとっても大きな財産です。
天国の衣笠さん、衣笠さんの大ファンである私とお付き合いくださり、改めてお礼申し上げます。
近々、アジア連盟に韓国、中国、台湾、に続いて「モンゴル」が加わりそうです。更に、日本式ティーボールは、ブラジル、ペルーでも広くプレーされるようになっています。アジアから世界へ間違いなく広がりを見せています。衣笠さんのお陰でもあります。ありがとうございました。
以上、元アジアティーボール連盟顧問衣笠祥雄様にご報告させていただきます。日本式ティーボールの今後も天国から見守っていてください。