5月29日 今くるよさんが天国へ。今いくよさんと今くるよさんと私の共通の恩師は福西康雄先生(日本ティーボール協会京都府連盟初代副会長)。ありがとうございました。

 上方を代表する今くるよさんが、天国に行かれました。2014年に胃がんが発覚。その翌年の2015年に相方の今いくよさんを亡くしてからは、一時期元気がなかったのですが、吉本興業の後輩女性芸人らの励ましもあり、お一人で活動を続けておられました。ご本人はとに角、明るく後輩からとても慕われていました。

 今いくよさんと今くるよさんと私は年齢でいうと二つ違いです。この二人と私の共通の恩師は、福西康雄先生(京都明徳商業高校元理事兼校長)。先生は若い頃、ソフトボール部部長兼監督。とに角、スパルタ教育、数年間で強いチームに育て上げられました。この高校は、私の母校平安高校から徒歩約20分、とても近い距離にあります。

1994年、日本ティーボール協会京都府連盟を創設した時、私は先生に初代副会長をお願いしました。

 今いくよさんと今くるよさんは、福西先生がソフトボール部を創設された5、6年後に入学。2年生の秋から、今いくよさんが主将、今くるよさんがマネージャー。二人は大の仲良し。二人は本当に明るく、決して他人の悪口をネタにしない芸人として有名。且つ、人柄がよく、優しかったのでした。

福西先生から、彼女たちのエピソードをよく聞きました。

 福西先生と私は、京都明徳商業高校が、1966年マニラで開催されたアジア女子ソフト―ル大会に日本代表として参加された時、東京の日本体育協会で行われた「壮行会」で初めてお会いしました。この時、私は1年生ながら早稲田大学ソフトボール部(当時は同好会主将)代表として参加、その折、初めて紹介されたのでした。

平安高校と明徳商業高校は近所同士。野球とソフトボール似た者同士ということで、早速コーチをお願いされました。

 私は、その2か月後の1年生の春休み、夏休み、早稲田祭休み、冬休み。そうです!4年間、大学の休みという時はいつでも、明徳商業高校ソフトボール部コーチとして、グラウンドで指導していました。そのような訳で、4年生になった春、教育実習は母校の平安高校には行かず、この明徳商業高校に行ったのでした。その折、今いくよ・今くるよさんは、ちょうど女性の二人コンビの漫才家として頭角を現してきたところでした。

 教育実習を終え、指導教官でもあった福西先生に呼ばれ、「吉村君!よくやってくれた。実はこの明徳商業高校ソフトボール部が、ハワイの日系野球・ソフトボール協会から招待を受けている、君もコーチとして帯同してくれないか」というもの。「はい、ありがとうございます」即答でした。当時1ドルが360円、大学卒の初任給は平均2万3千円。ハワイの往復航空運賃は、確か20万円ほどだったと思います。ハワイに行くなんて夢のまた夢でした。

 このような教育的指導、素晴らしい環境を私に与えて下さったのが福西先生。今いくよ・今くるよさんもきっとこのようにして高等教育を受けられたのでしょうね。

 私が最初に書いたソフトボールの指導書は、「写真で見るソフトボール」(成美堂出版・1976年8月発行)です。実はこの本の推薦者の一人が福西先生でした。ここに紹介します。

 「(前略)今度、早稲田大学の吉村正さんが『写真でみるソフトボール』を著しました。吉村さんは文字通りの『ソフトボールの虫』であり、かつまた、わが国では数少ないこの道の理論家の一人であります。(後略)」と書いてくださいました。この時私は、若干31歳。明徳商業高校での教育実習を終えてから9年、ハワイ留学から帰国して5年後のことでした。

 今いくよ・今くるよさんと私の恩師は、全くの同一人物、そしてその先生は、1994年に日本ティーボール協会京都府連盟を創設した時の初代副会長。

 今くるよさん!大きなお腹をポンと叩き、皆を笑いの世界へ導いて下さったこと決して忘れません。「爽やかなお笑い」をありがとうございました。

天国でも福西先生の前で、主将の今いくよさんとキャッチボール、そこでマネージャーの今くるよさん、エラーして「しまった、スミマセン!」と言って、お腹を「ポン」。