第17回日本ティーボールセミナー
2010年1月23日(土)開催
アジアティーボール(普及)協会設立のときに
◆ アジアテイーボールの(普及)協会設立とその今後
◆ ONの時代50年と今
開催要項
➡ 第17回日本ティーボールセミナー実施要項(PDF)
理事長講演
「アジアティーボール(普及)協会設立の経緯と今後」
吉村 正氏(早稲田大学人間科学学術院教授)
改めまして、みなさんこんにちは。今非常にやりにくいです。笑っていらっしゃいますけれども、海部先生のあの見事な開会の挨拶、スピーチ、その後皆さん方の素晴らしいバッティング、どれをとってもパーフェクト。私いくら頑張っても65点くらいのスピーチしか出来ません。ですから、今日は皆さん方の為に、たくさん資料を用意しましたので、私が喋りきれないところは、この資料を、このセミナー終わってからゆっくりご覧頂きたいなあという風に思っております。与えられた時間は30分ですけれども、時間が押しておりますので、20分くらいで切り上げさせて頂ければいいかなという風に思っております。実は30分で話を用意してたのを20分に短くするというのは、ものすごく難しいんですけれども、お聞き頂ければと思っております。
改めて申し上げますけれども、昨日、19名の韓国・台湾・中国・日本の役員によりまして、アジア連盟をスタートさせました。これは、我々17年前にこの日本ティーボール協会をスタートさせた時からの夢でありました。皆さん方はご存知かと思いますけれども、これです。我々が協会をスタートさせた時に、作り上げたルールブック、これが4ケ国語なんです。日本語・英語・韓国語・台湾語、まあ中国語なんですけれども、台湾の漢字を使わさせて頂きました。これは「東アジアは一つ」、海部先生がおっしゃったその言葉を我々はしっかりと受け止めて、日本発ティーボールをアジアできちんと育てていきたいなあという思いでありました。
当時はですね、ハングルのパソコンも、あの頃はなかったですから。何も、ワープロも一切ありませんでした。こちらの優秀な方に、韓国まで行って頂いて、それによって、それをダイレクトで印刷してこのようにしました。恐らくほとんど間違いがなかっただろうという風に思っております。台湾の中国語も然りです。これが我々日本ティーボール協会の誠意であります。ハー卜であります。英語に変えた場合、韓国語に変えた場合、中国語に変えた場合、誤字脱字があるのが普通でありますけれども、我々大学で仕事をさせてもらっている以上、間違ってはいけない。誠実にやってこそ、将来東アジアが一緒になる時が来るんだという思いでやって参りました。まさに、それが昨日結びついたのかなという風に思っております。それで、昨日我々が話し合って一致したのは、「アジアは一つ」こ れがキーワードです。子どもに笑顔を、「子どもに笑顔」このキーワード、これを大事にしたいと思っております。
また今日、4時半から細かい打ち合わせをやります。今年8月西武ドームで、第1回東アジアティーボール選手権大会をやります。小学生、5、6年生を対象にしてやります。その時には、是非海部先生にもお越し頂きたい、開会式でスピーチを頂きたいという風に思っている訳でありますけれども、その夢の実現に向けて、我々は今一生懸命やっているところであります。
大体そういうところでありますけれども、じゃあ韓国と日本は、台湾と日本は、今までどういうティーボールとしての付き合いがあったのだろうか、ということを今日ご紹介申し上げたいと思います。今から13年前、先程言いました徐先生、朴先生がこのセミナーにお越し下さいました。韓国連盟はそこからのスタートだという風に思います。13年間の本当に親しい付き合いをさせて頂きました。余談でありますけれども、この3年間私が自宅に帰りますと、家内は韓国ドラマしか見ていない。それほど親しくなりました。無二の親友が韓国にいらっしゃるというのは、とても嬉しいことという風に思っております。そのお二人を思い切りお支えになったのが、この前に曹先生、李顧問でいらっしゃるだろうと思っております。もう今、日本ティーボール協会が韓国ティーボール協会に負けそうな勢いなので、是非良い意味で競争し合っていきたいなあという風に思っております。一昨年、全国小学生3・4年生ティーボール選手権大会を西武ドームでやった時に、初めて韓国のチームを日本に連れて来て下さいました。昨年も来て下さいました。それが、この東アジアの連盟に結びついたのは言うまでもないことだと思っています。韓国ティーボール協会のご貢献、ご努力に、日本協会を代表して心から感謝申し上げたいと思っております。ありがとうございました。(拍手)ますます素晴らしいご協会をお育てになることを心から願いたいと思っております。
台湾と日本は、昨年、ソウルでのティーボール大会がありました。金泳三大統領閣下が私共までご招待頂いて、二度目でしょうか、ご自宅まで案内して頂いて、楽しいお話をさせて頂きました。その翌日、大きな大会があった訳ですけれども、そこに徐熊良さんがお見えになりまして、今まで個別でアジア連盟作ろうか、アジア大会やろうかって言ってい たのが、ぐぅっと盛り上がるようになりました。そこで、私は徐熊良さんから聞いた驚くべき事実があったんです。それは今から22年前でしょうか、チョウ・サイトウさん、日本読みですみません、チョウ・サイトウさん、三商の日本の支社長さんだと記憶しておりますけれども、私の所沢です、ちょうど人間科学部が出来た時です。そこに、7・8回お見え頂きました。確か、その時の話は、台湾でプロ野球を作ると、それを立派なものにしたいと、陳会長さんは言っていらっしゃると、それで、もう一方で一般対象、生涯スポーツとして、スローピッチのソフトボールを台湾で普及させたいのだけれどもどうかなあ、という話、その意見交換をさせて頂きました。で、その翌年ですよ。実は陳翔立先生のもうはっきり言ってお父様なんですけれども、早稲田大学のソフトボール部、今日受付にいっぱいいました彼らの22年前の連中に対して、私を含め全員台湾に招待しましょう、旅費から食費から遠征費から全部持ちましょう、で、日本と台湾とのスローピッチのソフトボールの交流会をやりましょうという招待状が来ました。私、読めないんです。それでたまたま私のゼミの1期生、私のゼミは当時、健康教育とレクリエーション教育、まあ一方でソフトボールやら野球を大事にしていたんですけれども、そういうゼミでありましたん で、そこに劉信平君っていうのがいまして、非常に優秀な子です。お父様は大きな会社をお持ちであって、お姉様は早稲田じゃなくてハーバード大学に行かれた。非常に立派な家の子がいて、それでその劉信平にこれはどうだって言ったら、「いや先生、これはすごいことです」、これ程まで陳翔立先生のお父様は、台湾でスローピッチソフトボールを普及させようと思って頑張られているんだと、私は何としてでも行きたかった。行こう。それが残念ながら、我々早稲田大学のソフトボール部は非常に強くてですね、インカレと重なってしまったんです。全日本大学選手権ですね。それで実は11月か12月頃に日程を変えてくれませんかと返事の手紙を出したら、ノーということになった。22年経った今もって悔しい思いをしているんでありますけれども、それが去年の9月、陳翔立先生とお会いした時に、「先生、その繋がりですよ」とこう言われてですね、私はアジアって、世界って、スモールワールドって、ね、小さな世界だなぁと言う風に思いました。
その陳翔立のお父様は、初代のプロ野球、台湾プロ野球のチェアーマン、コミッショナーでいらっしゃったということを聞いております。で、スローピッチ今、4000チームから5000チームあるそうです。ものすごい広がりだそうです。今、スローピッチのソフトボールの方ではその連盟で、非常にこう爽やかな、台湾と日本の交流をなされたと田辺さんからの報告やらで聞いている、こういう深い繋がりがありました。
中国、今日陳先生と劉先生いらっしゃったんですけども、これは前々回ぐらいこの場で言ったかも分かりませんけども、ここは、この国際会議場は実は野球のメッカだったんです。安部球場、戸塚球場といって、ここからすごい野球の選手、野球の指導者が育っていったんです。荒川先生そうですよね。後で来られる谷澤さんもそうだし、岡田オリックス監督もそうだし、最後は小宮山さんくらいまでですか。これはもう野球部OBの人にきちんと聞かなきゃいけないことなんですけど、それが22年前、この国際会議場と図書館が出来る、人間科学部が出来る、早稲田大学100周年事業の時に、グラウンドがなくなりました。そのグラウンドが東伏見に今あるんですけども、ここはまさに野球のメッカだった。この野球のメッカに1977年、今から何年前になりますでしょうか。33年前かな。中国のファーストピッチの女子のナショナルチームがここで最初にプレーした。私32歳、お世話した。 まぁ、そういう小さな世界の井戸を掘った人間というか、早稲田大学というのは、松村謙三先生やら、石橋湛山先生やらの関係、ご尽力等があり、幅の、懐の深い所があるものですから、そういう繋がりがありまして、最初中国の人達を、ご招待申し上げました。それからです。今また我々は、中国の本土の方々ともスムーズな関係、台湾との方もスムーズな関係、韓国とスムーズな関係を結びつつあるんですね。ここは本当にそういう場であることも、理解しておいて頂きたいなという風に思っております。そういう繋がりが今までありまして、昨日、今日に至った訳であります。あと、簡単にちょっと経緯と今年はなんですか、今後、アジアティーボール連盟設立の経緯と今後でありますので、簡単に、私の歴史とも重なり合ってちょっと手前味噌で、爽やかに語れないところあるかもしれませんけども、ちょっとお聞き下さい。
私が、この東京の安部球場に立ったのは、1965年でした。実は、入学して1か月で早稲田大学ソフトボール同好会というのを創ったんです。創った時に、このグラウンドでソフ トボールの授業がやられていた。ここでポスターを貼って「やりませんか」と募った場なんです。その関係で、その先生の下、4年間TAをやらせてもらいました。私は野球部員ではなかったですけれども、このグラウンド、元の安部球場に大変強い思い入れがあります。で、卒業後、私はハワイに留学して野球ソフトボールと、なんとスローピヅチのプレーもやりソフトボールもやらせて貰いました。350ゲームくらいやって帰ってきました。当時、留学する学生が非常に少ない時でありましたので、貴重な体験を日系野球の方々からそれを頂戴致しました。その時に、ハワイに行くことによって、日本も台湾も韓国も香港もフイリピンもマレーシアも、みんな一緒だという意識を、アジアは一つだという意識を確実に頂戴して参りました。ハワイ大学での留学はとても貴重でありました。で、その後、1975年に私は大学院を出てここ早稲田大学に奉職した訳であります。で、その2年後、先程言 いましたように中国のチームをここにお呼びした。
1977年に大きな出来事がありました。ティーボールと非常に重なる出来事です。それは、戦前、戦中、戦後と学校教育の中にソフトボール・ベースボール型競技というのが入ったのですけれど、それがなくなった年であった。その頃は、日本は野球・ソフトボール全盛でありました。その3年前長嶋さんが引退した時です。こう言った方が日本の人達には分かりやすいかもしれません。巨人軍は永遠に不滅、野球は永遠に不滅ですというような感じで言われていた。なぜ、学校教育からなくなったかと言うと、あの頃は野球・ソフトボールがあまりにも進化し過ぎて、ピッチャーとキャッチャーとバッターだけのゲームになったので、学校教育というのは全体の子どもが同じような運動量を確保してなければそれは望ましい体育授業ではないとされた。で消えた。それに変わって入ったのが、バスケットボールとサッカー、今バスケットボールとサッカーは隆盛を極めています。日本というのは学校教育で普及してそれが課外に普及していくこういう流れがあります。そういうとてもとても大事な年でありました。
再び手前味噌ですけれども、野球に関する論文を日本語と英語で発表しました。それはベースボールとソフトボールの歴史に関する再創造的な研究なのですけれども、その結論として、こう書きました。「日本独自の風土や環境に合った、日本人が真に欲する球技をこれから日本は作り上げていかなければならない。」こうまとめました。まさにそれが今ティーボールという形でこのように実を、花を開いているという風に考えております。そ の後ですか、大学スローピッチ研究会を創設して会長になりました。それがティーボール協会になっています。で、1985年再びハワイ大学に私はVisiting Professor (客員教授) という形で戻りました。その時の教員寮の隣が実は、イーストウェストセンター、東西文化センターだったのです。インド、中国、台湾、日本と東と西がそこで交流するセンター、そこの横のグラウンドは、スローピッチのソフトボールをやってる、クリケットもやってる、そういうものを見て、更にアジアは一つでなくてはいけない、というような思いを強くしました。その帰国して二年後に人間科学部が創設されて、先程言いましたように私のゼミは、健康教育とレクリェーション教育でありましたので、ソフトボールを大事にしてる人間は、ティーボールへ、ティーボールへ、ティーボールへ、と国民皆ベース・ボールへという方向に進んできました。
それから、少し飛ばしますけれども、1992年、学校教育にこのベースボール型、ソフトボールを入れようと思って、ずっと研究して参りまして、論文を出しましたのが「セット・トス・ミニピッチベースボール」「セット・トス・ミニピッチソフトボール」。セットだけ説明しますけれども、ティーの上にセットして打つベースボール。ティーの上にセットして打つソフトボール。これを学校教育でしたいなあ。で、「セット・トス・ミニピッチベースボール」「セット・トス・ミニピッチソフトボール」を一緒にしたのが、実は今のティーボールなんです。ですから、日本のティーボールは、アメリカ、カナダでやられているティーボールと違いまして、学校教育に入れようとしています。ですからティーベースボールからきていますので、9インチの野球のちっちゃいボールも使います。また、11インチ、12 インチ、14インチとこれも使います。それはプレーしてる人の技術レベルによって変えなければならない。ルールを変えることによって、そのレベルの人達から笑顔を取ることが出来る。これは生涯スポーツの指導者として、極めて重要なことである。これは当時の文部科学省に高く評価されました。その後は、先日1週間で作った、皆さんにお渡しした「世界のティーボール」の冊子をご覧下さい。ですので、あと簡単に説明しておきます。この1993年に海部俊樹先生を会長に頂いてスタートした。で、4か国のルールブックを作って、先程言いました「アジアは一つでいこう」というテーマを持ってやってきました。
先程も海部先生からありましたように1997年だったでしょうか。海部先生の多大なご尽力によってジョージ・ブッシュ先生と世界の連盟、共同議長という形でスタートさせて頂いて、北米でもジョージ・ブッシュ先生のラインは、アジア発ティーボールであります。それを正しくご理解頂きたいと思っております。それで、去年、一昨年ですか、6月30日に文科省から3・4年生でもティーボール出来ますけれども、5・6年生でも例示という形でベースボール型の中心球技としてティーボールが入りました。先程、海部先生から話がありましたように海部先生のお力を借りて、文部科学省の方の力を借りてここには欠席でいらっしゃいますけど、当時の松浪健四郎先生や菅原一秀先生や多くの先生方のお力を借 りて、これは本当に子どもから笑顔が取れるボールゲームであるということを認めて頂いて学校教育の方に入れて頂きました。「笑顔いっぱいティーボール」の冊子も作らせて頂きました。ここに吉永先生がいらっしゃいますけれども、体育科教育の権威で早稲田大学の先生でありますけども、彼を中心に日本で小学生から笑顔を取る為にはどういうような方法論が良いだろうか。というのを合宿までしてやりました。7〜8名の小学校の先生方から集めた資料はこれくらいあります。200枚ぐらいあったのですがそれをこんな薄っぺらい資料にしました。皆さんお持ちの資料がそれです。「笑顔いっぱいティーボール」です。それを英語に韓国語に中国語に翻訳しようとしています。アジアから世界にこれをまた発信させたいなという思いであります。
で、いよいよ最後になりますけど、アジアティーボール連盟がスタート致します。これからの魅力とメリットをスピーチさせて頂いて五つだけ申し上げて私のスピーチとさせて頂きますけども、一つはこういうアジアが一緒になることで用具とルールをきちんと統一した形でアジア大会をやらねばならなくなります。これが出来る魅力、もちろん台湾は台湾の風土や環境にあったティーボールをおやりになるでしょう。韓国は韓国で同じように風土や環境にあったティーボールをおやりになるでしょう。でも、国際大会、アジア大会をやる時にはお互いが歩み寄って良いルールを作っていく、そして韓国の子どもも、台湾 の子どもも、日本の子どもも、そこから笑顔が出る、そういうルールにしていかなければいけないのです。まず、一つに用具とルールの一本化、非常に大事なものだろうと思います。
二つ目、この東アジアの連盟を作ることによって日本ではこの日本ティーボール協会さ らにグレードアップしたこれしかないすごいものだということだと世にアピール出来るということであります。日本の国を背負うことになります。今まではそれぞれの都道府県で一生懸命やったら良かったんですけども、国を背負っての国民皆ベース・ボールを考えていかなければならないということになるのと思います。
三つ目は、我々はチョウ先生もそうですけど、大学の教員として教鞭を取っています。教育に思いっきり特化球技にしたいと思っています。日本の野球が日本のソフトボールが なぜここまで普及したのか。教育の一環として進んできたのが大きいと思います。礼に入って礼に終わりというのは、我々はとても大事にしています。それをやはりティーボールでも大事にして、それを大事にしてアジアにもっともっともっともっと広めていきたいなと思います。
四番目にその「もっともっと」のところですが、東アジアが更なるアジアへというのを色々お手伝いしていきたいと思います。中国の本土に対しても応援する、フィリピンに対しても応援する、マレーシアに対しても応援する、パキスタンに対しても、インドに対しても応援する良い形をこれから取れれば非常に素敵だなと思います。世界貢献が出来るティーボールを通してそう思います。
で、五つ目は、このセミナーで早稲田の学生がよくブラジルから帰って参りました。という風に挨拶していました。実は早稲田大学ソフトボール部はナガセケンコー、田辺さんなんかの力を借りて、12年間に16人の指導者をブラジルに送っています。ブラジルには日本人の移民が150万人いるんです。その中でリーマンショックまでは31万人が日本に出稼ぎでお越しになっていたのです。ですから、これからはきちんとこの日本で住まわせているブラジルの人達に貢献したいな。ブラジルの野球、ソフトボール連盟というのは日系人がやられています。礼に入って礼に終わるという野球をやられています。ソフトボールをやられています。ティーボールもスタートしました。ブラデスコ銀行の一番偉い人とも話し合いました。フレッドマンという国会議員で、体育スポーツ局長にも話し合いました。その人達も、日本の野球・ソフトボールに大変深い理解を持って下さっています。そういう方々も来てもらいたい。ですから、これからのアジア大会はこの三つの国から来られるだけでなく、日本の例えば横浜の中華街から中国人チームが来る、ロッテ会館の横の韓国の人達がまた大会に来る、ブラジル人の多い町の知立市なんかで働いてる方がいらっしゃったら、アジア大会を、アジアオープン大会みたいな形でご用意する。また、新しい 国のチームがどんどんどんどんお越しになるような雰囲気を我々はこれから作っていきたいな。そうすれば、日本のティーボール、韓国のティーボール協会、台湾ティーボール協会も足腰をきちんと据えることになって、三者がしっかり手を組むことによって、山内一豊ではないですけれども、本当に折れない立派な組織になるという風に思います。今日ここにお集まりの方々と一緒になって、この素晴らしいティーボールをアジアで充実させ、世界に広めていくことを心から願って、また我々も頑張っていきたいという風に思います。今日は皆さん、どうもありがとうございました。(拍手)